自分から動いて道を切り拓く。
そこから楽しさが湧き出て、
新たな夢も生まれる

文芸学科卒業
渡邊 早貴(わたなべ さき)

小説を書きたい、文章を紡ぎたい。
創作の場を求めて日藝へ

「文章を紡ぐ人になりたい」と思った原点は、小学生の頃にまで遡ります。
児童書の人気作家・はやみねかおる先生が、私の地元である香川県の書店でサイン会を行うと聞き、母に連れられて行きました。長い時間かけて待った末、現れたのは一見ふつうの人。しかし、「この人があんなにおもしろい本を書いているんだ」と思った途端、小説家という職業に興味が沸き始め、それ以来自分でも物語を書くようになりました。

ですが、中学・高校ではバスケットボール部の活動と勉強に追われ、物語を書くことはめっきり減少。そんななかでも小説家という夢は不思議と消えず、当初、大学は文学部に進もうと考えていたんです。しかし、よくよく調べてみると文学部は作品を「研究する」場所。そこで「創作」を学べる場所を探し、日本大学芸術学部の文芸学科という選択肢に辿り着きました。

両親は芸術学部へ進学することに、はじめはやや難色を示していましたが、いとこが日藝の文芸学科に通っていることがわかり、大学の雰囲気を聞いたり、自分のやりたいことを伝えていくなかで、最後には応援をしてくれました。
こうして迎えたAO入試の面接官は、偶然にもいとこが所属していたゼミの先生。面接時間のほとんどがいとこの話で終始するという不思議な縁もありましたが、結果は無事に合格。念願だった日藝生活が幕を開けました。

自分を追い込み、日藝の広報誌の
編集部員としても活動

創作意欲満々で入学したものの、1年次はサークルでのバンド活動やアルバイトに大半の時間を費やし、創作活動はおろそかになっていました。何をしに日藝に来たのだと自己嫌悪に陥り、一時はサークルを辞めようかと考えましたが、投げ出すのは悔しかった。覚悟を決めた私は、2年次から自分を過酷な環境へ追い込みました。DTPなどの実技科目を積極的に履修し、さらに3年次には谷村先生のゼミに所属し、日藝の広報誌『Art Campus』の編集部員として活動をスタートしました。

フォークソング倶楽部の仲間たち

フォークソング倶楽部の引退ライブ

『Art Campus』は、大学がある江古田の街の魅力や日藝の取り組みを学内外に発信する本格的な冊子です。各学科の先生や学生たちはもちろん、日藝出身の有名な著名人に直接取材をすることも。企画内容に合わせてインタビューすることや、原稿を書くことはとても楽しく、編集というおもしろさに気づきました。とても忙しい日々でしたが、現在の私のタフさの基盤になったことは間違いありません。

編集に携わった日藝の広報誌『Art Campus』

関わった人たち全員に
スポットライトをあてた卒博の展示を実現

大学生活の最大の集大成となったのが、4年次の「卒業制作博覧会(卒博)」への出展です。実は、私は小・中・高校生時代を通じて、周囲から「変わった人」「変な子」と言われ続け、自分の居場所を見つけられずに苦しんできました。
しかし、日藝ではその苦しみとは無縁でした。ここには、強烈な個性をもつ人があふれていたんです。そして何より、日藝の人たちは他人の個性を絶対に否定しないのです。
ここでは「変わっている」ことは、褒め言葉であり、輝くべき個性でした。
「こんなに素晴らしい仲間たちに出会えたことを、多くの人に知ってほしい」と思った私は、日藝で出会った友人たちを巻き込んで卒業展示を開催することを決意しました。

日藝で出会ったたくさんの人たちに感謝を込めた卒博の展示室

『Art Campus』で培った経験を活かし、私は友人たちを紹介する雑誌を作成。その内容を視覚的・空間的に表現するため、文芸学科のゼミ室を一室丸ごと借り切って、卒博の展示を作り上げました。
デザイン学科の友人にはポスター作成を依頼し、写真学科の後輩には写真撮影を。映画学科の後輩には展示が完成するまでの舞台裏を収めたドキュメンタリー映像を制作してもらい、その映像には放送学科の友人がナレーションをあててくれました。さらに、美術学科の友人には私の肖像画を描いてもらい、その周りに私が日藝で出会った大切な人たちの写真をたくさん掲示しました。
また卒博期間中にはサークルのメンバーを展示室に招き、アコースティックライブも開催。演奏してくれたひとりは音楽学科に在籍していたこともあり、日藝のほぼすべての学科の学生、先生までをも巻き込んだ自作雑誌と展示空間が完成しました。

卒博の展示室でフォークソング倶楽部の仲間たちがライブ

卒博の期間中、展示室を訪れた高校生が「僕も日藝でこういう熱いことがやりたいです」と目を輝かせて言ってくれました。ある保護者の方は、その場で雑誌を読んでくださり、笑顔で誌面を持ち帰ってくれました。私のメッセージが、見ず知らずの誰かの未来を照らした瞬間、改めて誰かと一緒に1つのものを作りあげる喜びを知ったのです。

コロナ禍の焦燥、時代の変遷…
それでも「言葉」の真ん中で生きていく

大学で取材の仕事に魅せられた私は、卒業後は企業の広報誌や記念誌などを制作する会社にコピーライターとして就職しました。思ったより取材は少なかったものの日々の業務を精一杯こなすなか、襲ってきたのがコロナ禍。取材の仕事は減少。忙しさに身を置くことに喜びを感じるようになっていた私に、在宅勤務は苦痛でした。

そんななか、自宅で何気なく1冊のファッション誌を読んでいると、「読者を絶対にときめかせる」という編集の熱意と工夫が伝わる企画に出合いました。
「こんな風に誰かの心に届くページが作りたい」と心動かされ、転職を決意。そして『美人百花』編集部へ入社しました。
ここでの約4年半は、まさに怒涛の日々。企画の構成を練り、モデルやスタッフの手配から現場のディレクション、原稿の作成・校正まで、雑誌制作の隅々まで携わりました。心を込めて作った雑誌が書店に並び、読者からいい声も悪い声もしっかりと返ってくる。それはやりがいであり、編集者として成長し続けたいと思う、原動力でもありました。
ところが、なんと『美人百花』は突然の休刊を発表。あまりに急な出来事に、喪失感はぬぐいきれぬまま、私は会社を去ることになりました。

『美人百花』休刊時、活躍してくれた読者モデルのために作成

紙の雑誌は厳しい時代です。売上だけでは雑誌を維持できないため、編集者であっても広告の獲得やSNSとの連動など、どう数字を作るかといったシビアな営業意識、数字を見る力が求められる時代になっています。自分自身が紙媒体の厳しさを身をもって実感したこともあり、退職後はこのまま編集者を続けてもいいのかと悩んでいました。
とはいえ、私はやはり紙の媒体が好き。そんな私を救ってくれたのは、人とのつながりでした。『美人百花』時代にお世話になっていたライターさんが、新潮社のティーン向け雑誌『ニコラ』の編集部で求人が出ていることを教えてくださり、紹介という形で橋渡しをしてくれたのです。こうして再び大好きな雑誌の世界に戻ることができました。
今の中高生たちのリアルな声を拾い上げ、彼女たちのバイブルとなる誌面を作ることは、難しくも毎日が新鮮の連続です。 

『ニコラ』のページイメージ(コンテ)

『ニコラ』の実際の誌面

現在の私の目標は、時代の半歩先を敏感に察知し、しっかりと雑誌の「数字」を見つめ、コントロールできる、タフで息の長い編集者になること。小説家の道とは少し変わりましたが、「言葉」の真ん中で生きています。

日藝を志すあなたへ。「起動愛楽」の精神が、
あなたの未来の盾になる

当時、日藝には新入生歓迎行事で配られていた、各学科の代表学生が創作四字熟語を紹介する『一語日藝』という式次第がありました。私は学生時代、文芸学科代表として制作に携わり、そのとき私が誌面に掲げた四字熟語が「起動愛楽(きどうあいらく)」です。
何かおもしろいことをやりたいと自分が「起動」したとき、日藝には一緒に「楽」しんで協働してくれる仲間が必ずいます。そして作り手の「愛」が詰まった最高の作品が完成します。

日藝で仲間と肩を組み、自分のやりたいことに魂を燃やしたという「起動愛楽」の記憶は、社会に出てどんな荒波に揉まれようとも、あなたを支え続ける最強の盾になります。
自分の衝動を信じて、がむしゃらに動いてみてください。その先に広がる景色は、きっと信じられないほど愛に満ちたものになるはずです。応援しています。

(※職業・勤務先は、取材当時のものです)

渡邊 早貴  わたなべ さき

2019年 文芸学科卒。
株式会社新潮社 ニコラ事業部勤務 
雑誌『ニコラ』の編集


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